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二度と出来ない読書体験をありがとう。町田康「告白」

まず始めに断っておくと、これは書評でもなければ読書感想文ですらありません。
 
「告白」があまりにも凄まじいエネルギーを持った作品だったため、読後頭の中がぐちゃぐちゃになり、これではあかんと思い筆を執った次第です。
 
要は、気持ちの整理をしなければ日常生活を営むのも難しくなるくらい影響を受けてしまったので、ここに全てをぶちまけてしまおうということ。
 
吐瀉物と何ら変わらないことを皆さんに先にお伝えしておきます。
 

物語

とはいったものの、ブログとは誰かに何かを伝えるために存在しているもの。だから一応「告白」の良さを私なりにお伝えしようとは思います。
 
思いますが、上記に書いたように今回は伝えるというよりかは整理するという側面が強いので、もしかしたら皆さんからすれば、何の役にも立たない情報になってしまうかもしれません。
その辺は下記を読む前にあらかじめご理解いただければ幸いです。
 
※以下ネタばれあり
 
物語は、河内十人斬りという明治時代に実際にあった出来事を足掛かりにして紡がれています。登場する人間も同じなら、事件の流れもほとんど変わりません。ちなみに作中では全員河内弁を話している。
 
事件自体は悲惨なものではあるものの、特筆して物語にするほど、奇々怪々な背景があるわけではないです。
 
なぜなら、事件の全容は、主人公である熊太郎とその兄弟分の弥五郎が金と痴情のもつれから、同じ村にいた人間を斬り捨てるという構造自体シンプルなものだから。
 
にもかかわらず、読者がなぜこんなにも物語に引き込まれるのかというと、それはやはり作者の力によるところが大きいでしょう。
 
作者が凄いのは、この一連の事件に普遍的な背景を与えているということ。
 
町田康は熊太郎という人間に現代人なら共感せざるを得ない人格を与え、また読者には、なぜ人は人を殺してしまうのかという1つの問いかけを与えている。
 
そして、そこが物語のテーマであり、作者の意図するところだと思います。
 
なぜ人と分かりあうことがこんなにも難しいのか?なぜ人は人を殺してしまうのか?
物語を通して、町田康はこう読者に問うているわけです。
 
それを踏まえると「告白」という作品は、明治の出来事を通して、我々現代人が考えなければいけない問題を浮き彫りにした極上の文学作品だと言えるかもしれません。
 

共感の嵐

読んでいて大きく惹かれたのは、熊太郎の人間性でした。
 
熊太郎の性格を一言で言えば、思弁的。ああでもない、こうでもないと考えているうちに自分が何を言いたかったのか分からなくなって、思ってもいないようなことを言ってしまうという性格の持ち主です。
 
「伝えたいけど伝わらない」
 
これは誰しもが抱えている悩みの1つではないでしょうか?
 
私も割と思弁的な方だと思っているので、熊太郎には大いに共感してしまいました。
 
「言いたいこと言えないんだけれどもそもそも言いたいことなんてあるのか?いやあるにはあるんだけれどもその言いたいことが言葉にならないから結局は言いたいことはないのかもしれない」
 
という具合に考えてしまう熊太郎が、写し鏡に映る自分のように思えてなりませんでした。
 
加えて熊太郎は、物事を選択する際も直線的な選び方をしません。
いいと思ったからこれにした、というような選び方はせず、いいとは思ったけど、あれとこれを考えるとこっちにしとこうみたいに幾重にも回り道をしてから何でも決めます。
 
しかし、結局は自分の中だけでの話なので、最終的には損をしてしまいます。これも大いに共感できる点でしょう。
 
面倒くさいやつと言ってしまえばそれまでですが、共感できる人は途轍もなく熊太郎に共感できると思いますよ。
 
結局のところ「告白」の良さは、熊太郎の人間性と言っても過言ではないかもしれません。それを描いた町田康氏の筆力とも言えます。
 

主人公をいたぶり過ぎ

主人公は苦しませれば苦しませるほど、物語が面白くなっていきます(池井戸作品が最も分かりやすい例)。
苦境を乗り越えさせてこそ主人公の成長した姿を見ることが出来るし、カタルシスも生まれるからです。
 
しかし「告白」には、主人公をあれだけ苦しませておきながらもカタルシスらしきものが一切なかった。
 
だから主人公がそれまでに受けてきた不条理を消化しきれずに物語は終わっていて、読んだ人の中にはなんかモヤモヤするという読後感を持った人もきっといるはずです。
 
あれだけの不条理はなかなかお目にかかれるものじゃありません。何百ページも使って主人公を痛めつけるのだから相当なものです。
 
町田康ほどの作家ならそれをてこのように利用し、読者を安易に喜ばせることは出来たはずです。しかし作者はそれをしませんでした。
 
ということは、作者の意図は別にあると考えていいでしょう。
 
作者はつまるところ、殺人の整合性や読者を安易に喜ばせることよりも、人を殺める行為を通して人間がどう感じ、どのような心境に至るのかを本作を通して描きたかったのではないかと私は考えています。
 
その結果、史実を用い、登場人物の気持ちを作家の想像力で補っていくことで、「人はなぜ人を殺してしまうのか」の答を見事なまでに描き切りました。
 
安易な道を選ばずあえて厳しい道のりに立った1人の作家の姿勢に、プロ根性を感じずにはいられませんね。
 

ラストについて

もっと分かりやすく説明するなら、作家の言いたかったことはラストに集約されているので、ここを見れば分かります。
 
※ネタバレ注意。
 
 
※熊太郎が自害する際に想いを告白したシーン
なんらの言葉もなかった
なんらの思いもなかった
なにひとつ出てこなかった
ただ涙があふれるばかりだった
熊太郎の口から息のような声が漏れた
「あかんかった」
 
ここ。
 
悩みに悩んで生きてきた挙句、なにもなかったというラスト。探していたものは、もとから存在しなかったという境地に至るシーン。
熊太郎は、殺人を通して初めてこのことに気づいたのです。
 
これが人を殺めていなかったら、熊太郎はいくらでも再スタートできたし、人としても真っ当に生きれていたでしょう。
 
でももうすでに遅かった。
 
自害するよりなかった。あまりにも切ないラスト。河内弁がより一層切なさを演出しています。あまりにも虚無的です。
 
でもよくよく考えてみると、人が人を殺すことに深い意味なんてないのかもしれない。人が人を殺すのにドラマなんて存在しないのかもしれない。理解されるものでもないのかもしれない。
 
そのメッセージがラストシーンには込められているように思います。
 
 
そしてその実、人間なんて案外そんなものだったりします。
 
「俺には他の奴にはない特別なものがある」だとか、「誰も自分の気持なんか分かってくれない」だとかってついつい考えてしまうけれど、もしかしたらそんなものは実存しないのかもしれない。
 
このラストから分かるのは、そういった自意識が生み出した幻想がいかに無意味であるかという手厳しくも虚無的な教えなのです。
 
以上を踏まえると、作者は物語を通して不条理な世界に生きる我々にその厳しさを説いたのかもしれないですね。
 
というわけで思弁的な私が言えるのはここまでです。本当はもっと言いたいことがあったのですが、書き切れる自信がないのでこのくらいにさせてもらいます。
 

 まとめ

 圧倒されるとはこういう作品に出会ったときに使う表現なのだと初めて知りました。「告白」はそれくらい熱量のある作品だった。
 
もうこんな体験は二度と出来ないでしょう。この1冊に出会えたことに感謝です。
 
以上。

 

告白 (中公文庫)

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